2012-01-01から1年間の記事一覧

今日は、フローベール『感情教育』の続きです。石井洋二郎先生の文章の続きを紹介し、古くから安定して存在するポン・ヌフ橋の希望のイメージに対して、不安定な歴史をたどったコンコルド橋の不安のイメージもまた、フレデリックの心象風景の重要なトポスに…

今日は、「セミラミスの歌」の残りを読み終え、間髪をいれず、最後の詩「詩の愛好家」(これは『旧詩帖』のなかで唯一の散文詩です)に入り、第三段落の終わりまで、読みました。思考をきわめて一般的に表象し、そのかりそめに流れていく姿に明確な形を与え…

今日は、前回(11月28日)の続きで、フローベールの『感情教育』のお話です。文章の魅力、なかでも、「吸い込む」「とろける」といった感覚的な表現の豊かさ、自由間接話法の自在な活用の効果(語り手の視点と登場人物の視点の双方をいいとこどりした叙…

今日は、「序説」第二段落の終わり(p. 1156の2行目)まで、読みました。「われわれ(nous)」を語りの人称として用いて一般的な地平を述べた第一段落からは一転、今度は、「わたし(je)」を語りの人称として、「ある人間」を想像する試みが始まります。本…

今日は、「セミラミスの歌」の第15詩節から第24詩節まで、読みました。バビロンの女王セミラミスが、塔の高みから都市を眺めおろし、新たな神殿の建設が進む街の活気に満足し、民衆への嫌悪と愛情の混交、民衆の蜂起の可能性に対する鎮圧力の自負、恋愛の奴…

今日は、フローベールの小説『ボヴァリー夫人』第2部第8章の有名な「農事共進会」の場面をゆっくりと読んでみました。政治の紋切型言説と恋愛の紋切型言説とがパラレルに展開され、双方の言葉の空虚が浮き彫りになるという、じつに印象深いところで、何度読…

今日は、「レオナルド・ダ・ヴィンチ方法序説」の第1段落の読みの続きです。当面、1895年の初出と1938年の決定版テクスト(1957年のプレイヤード版は、「序説」と「注記と余談」の順番をクロノロジーに合わせて変えているほかは、この1938年の「著作集版」の…

今日は、「セミラミスの歌」の第14詩節まで、読みました。アウロラの目覚めの促しに応えてセミラミスが覚醒し起き上がります。帝国の女主人はお気に入りの塔にのぼって、自分の都市国家を見降ろします。その時、彼女の魂の力は無限です。今日読んだ部分では…

今日は、前回に引き続き、ボードレールについての特別篇として、5月22日に開催された、アントワーヌ・コンパニョン先生(コレージュ・ド・フランス教授)の講演会「写真映りのよい詩人―ボードレールの現代性」のDVDをプロジェクターに映し出して、ほぼ全…

今日は、ヴァレリーのデビュー評論「レオナルド・ダ・ヴィンチ方法序説」のテキスト・クリティックの概観として、プレイヤード版の後注を参照しながら、初出や諸刊行本(実物)を紹介してみました。時間順に全部で六つの版があります。重要なのは、初出(189…

今日は、「セミラミスの歌」の第5詩節の「肉体の打ち勝ち難い横糸」という表現をめぐって、ホワイティングさんの注釈をじっくり読んでみました。「アンヌ」では男の影が濃厚でしたが、「セミラミスの歌」では、特に冒頭部においては、男の影や性的なもののイ…

今日は、ボードレールの散文詩「駄目なガラス屋」における間テクスト性について、吸収したモデルとしてのポーの「天邪鬼」と反抗すべき敵としてのウーセイの「ガラス屋の歌」を紹介し、ボードレールの作品テクストと並べて、眺めてみました。こうして、関係…

今日は、「レオナルドと哲学者たち」を、無事、読了しました。ヴァレリーの込み入った思考に丁寧についていくのは骨が折れますが、それでも、テクストの明快さを感得できたときは爽快な気持ちになります。ヴァレリーの理論的散文も、ヴァレリー自身が基本的…

今日は、「アンヌ」の残りを読み終えたのち、「セミラミスの歌」に入り、とりあえず第5詩節の終わりまで、読みました。「アンヌ」から「セミラミスの歌」への接続は、眠る女のイメージと、曙の訪れと目覚めというテーマで、じつにスムーズに行われていると思…

今日は、バルザックの『ゴリオ爺さん』から三つのシーンを取り上げて、読みました。この小説の主人公は二人いて、ひとりはタイトルにある「ゴリオ爺さん」、もうひとりがラスティニャック青年です。授業では、うぶなラスティニャック君に世間での成功のため…

今日は、p.1268の上から7行目まで、読みました。言語では抜け落ちてしまう連続性の表象が、図形や音楽では可能であることを述べた部分です。「連続性を表象できるcapable du continu」という表現は、前に読んだ、絶えず変化する思考の、その変化の連続性を表…

今日は、「アンヌ」の続きで、プレイヤード版所収の全十三詩節のヴァージョンを第九詩節まで、読みました。ところどころイメージがつかめない部分は残りましたが、全体として、眠る裸婦像と、女と男たちのエロス的緊張の劇が、抽象的な語彙と具体的な比喩に…

今日は、スタンダールの『赤と黒』から、印象深い三つのシーンを選んで、原文の表現も味わいつつ、紹介してみました。前回読んだ『アドルフ』とはまた違った意味で、時代の鬱屈というものが、スーパーヒーロー・ジュリヤンのロマン主義的大活躍によって、か…

今日は、p.1266の14行目まで、読みました。哲学者は自分の思考をなんとかして言葉に固定しようと努力するが、言葉はその努力に応えることがない……。古来、すぐれた哲学者たちによって、さまざまな語が創造されてきたが、それらは文脈で決まる暗号だ、とヴァ…

今日は、「夕べの豪奢」のラスト部分を読み終え、間髪をいれずに、次の詩篇「アンヌ」の読みに入りました。今日は、ホワイティングさんの注釈本に紹介されている、1900年12月1日号「ラ・プリュム」誌掲載のヴァージョン(全部で六詩節)に目を通してみました…

今日は、バンジャマン・コンスタンの『アドルフ』を紹介し、第3章を全部、読んでみました。日本語訳のほか、Gallicaで入手した1816年の初版のテクストも、参考までに紹介しました。小説が始まって間もない第3章で、アドルフのエレノールへの恋愛は精神的にも…

今日は、私の担当の最終回、「ヴァレリーとドガ」についてお話しました。理論的な話から、ほろりとさせる話まで、ヴァレリーの「ドガ ダンス デッサン」はヴァラエティに富んだエッセイ集です。私からのレポート課題は「文章作家と美術の関わり」についてで…

今日は、ヴァレリーの「レオナルドと哲学者たち」の続きで、p. 1264の8行目まで、読みました。一般には、たしかに、言語なしに思考はできないとされるが、しかし、さらに仔細に見れば、言語ではとらえきれない思考があることに気づく、とヴァレリーは言いま…

今日は、「夕べの豪奢」の最終節の6行目(全体の85行目)まで、読みました。第10詩節で想像力の伸びやかな飛翔がピークに達したあとは、日没を迎え、闇となり、目に映る美しいイメージたちとの別れを経て、ついには「もはや見えなく」なります。闇がひたひた…

今日は、ロマン主義演劇のマニフェストとして名高い、ユゴーの『エルナニ』の冒頭部(第一幕第一場)をじっくりと読み、古典主義の作劇法や詩法にどのように違反しているのか、ということを確認しました。この冒頭部は喜劇的な要素が多く、今読んでも十分に…

今日は、「フランス文学と美術」3回シリーズの第二回目です。「ヴァレリーにおける絵画のトポス」と題して、詩人ヴァレリーの生涯において絵画との濃い付き合いが展開された場所を三つ――モンペリエのファーブル美術館、パリのアンリ・ルアール邸、ベルト・モ…

今日は、p.1263の1行目まで、読みました。p.1262の後半では、言語なしでは思考できないという考え方が繰り返し展開されていましたが、以下、ヴァレリーはもう一歩つっこんで、思考が慣習的な言語では捉えられなくなる瞬間をめぐって、考察を深めていきます。…

今日は、「夕べの豪奢」の第9詩節の終わり(45行目)まで、読みました。ヴァレリーは特にアリテラシオン(畳韻)を好む詩人であるというワルゼールの文章を紹介しました(『ヴァレリーの詩』110-111頁)。そして、全体の構成については、ホワイティングの指…

今日は、前回のルソーに続いて、いわゆる前ロマン主義的な詩の例としてドリール師とアンドレ・シェニエの詩を紹介し、そこに古典主義からロマン主義への移行期の徴を読み取ったのち、一気に、1820年の代表的ロマン主義詩篇、ラマルチーヌの「みずうみ」をゆ…

今日は、フランス文学と美術というテーマによる三回シリーズの第一回です。「ポール・ヴァレリーとレオナルド・ダ・ヴィンチ」という題で、お話させていただきました。ダ・ヴィンチからヴァレリーへの一方通行のいわゆる「影響」の話になりましたが、文章作…