水3大学院研究演習

前期最終回の今日は、ヴァレリーの「レオナルド・ダ・ヴィンチ方法序説」の第二十段落の終わり(プレイヤード版1172頁の下から8行目)まで、読みました。第十九段落では、「思考の難易度」のようなものが考えられていました。また、第二十段落の欄外注の言葉…

今日は、「序説」の第18段落を読み、拙論「同一化原理をめぐって」のうち重要な資料――ポーの原テキストと「同一化原理」と題するヴァレリーの1893年の断章――について解説的な紹介を試みました。プレイヤード版1171頁の原注部分の解釈は、学生の皆さんの鋭い…

今日は、「序説」の続きで、第十八段落を少し入ったところ(プレイヤード版1170頁の下から十行目)まで、読みました。形と運動の相互乗り入れを見てとる想像力についての記述が続きます。このあたりは、後のシュルレアリスムの詩人たちが絶賛しそうな部分で…

今日は、ヴァレリーの「レオナルド・ダ・ヴィンチ方法序説」の続きで、第十六段落の最後(プレイヤード版1169頁の真ん中)まで、読みました。球体の中心にいる「見る人」が、ちょうどプラネタリウムでも見るように、球面の内側に浮かぶ、さまざまな形(イメ…

今日は、プレイヤード版p.1168の上から7行目まで、読みました。「見る人」の知覚や思考の運動を、外界とのコンタクトの瞬間から、ごく一般的かつ抽象的に描写してみるとどうなるか、という試みが、第十六段落なのだと思います。こうした抽象的なモデル化には…

今日は、ヴァレリーの『レオナルド・ダ・ヴィンチ方法序説』の第十四段落(プレイヤード版p.1166の下から二行目まで)を、読みました。眼(網膜)で見るよりも、知性(語彙)でものを見る「大部分の人びと」への辛口の批判が大々的に展開される「有名な」(…

今日は、「レオナルド・ダ・ヴィンチ方法序説」の第12段落の終わり(プレイヤード版p.1164の下から5行目)まで、読みました。哲学者批判あるいは概念主義批判から、「見ること」へと描写は進んでいきます。このテクストはまさしく、思考という運動の描写…

今日は、「序説」の第十段落の終わり(プレイヤード版1163頁の下の一行空きのところ)まで、読みました。通常の思考を思考するメタ意識状態のある一点に至ると、通常の思考の流れに規則性が読みとれる瞬間がある。そのとき、通常の思考の流れを加速し、通常…

今日は、「序説」の第九段落の終わり(プレイヤード版p.1162の10行目)まで、読みました。「思考のもろもろの操作についての意識」、「それらの本性について人が下す判断」、「(思考対象を変化させることができる)能力についての認識」、これらはいずれも…

今日は、「序説」第七段落の終わりまで、読みました。事物の連続性の法則を捉える精神としてレオナルドやボナパルトが挙げられていました。la plus haute intelligenceはじつは、1895年の初出ではla plus humble intelligenceとなっていました。humbleのほう…

今日は、「序説」の第五、第六段落を、読みました。イメージの物理学のようなものを考える部分は非常に面白いところです。また、p.1158で「パスカルの名高い覚書」という言い方が出てきましたが、これは1919年版以降の表現で、1895年の初出では「パスカルの…

今日は、「レオナルド・ダ・ヴィンチ方法序説」の第四段落を、読みました。ヴァレリーは、完成した作品よりも作品の生成に、精神の仕事の結果よりもその運動の初期状態に眼差しを向けます。p. 1157の5行目の「相互的な媚態」とは「作者と我々のあいだの」そ…

今日は、「レオナルド・ダ・ヴィンチ方法序説」の第三段落の終わりまで、読みました。プレイヤード版1156頁の下から6行目、意味的にsi〜queの構文になっていなければならないはず(bienの前にsiがあるべきところ)です。変だなと思って1895年の『新評論』に…

開講しました!

本日より、ヴァレリーのデビュー評論「レオナルド・ダ・ヴィンチ方法序説」を読みます。今日は、テキストをお配りし、初出誌について、また、1894年のヴァレリーについて、簡単に説明しました。そのあと、さっそく第一段落を読みました。来週は第二、第三段…

前期最終回

今日は、ヴァレリーの「レオナルドと哲学者たち」のp.1258の一番下まで、読みました。一応区切りのよいところと思います。凝った並列構文を多用するヴァレリーの文章も、慣れてくると、リズムと味わいがあります。結局、プレイヤード版で全36ページ中、前…

今日は、p.1257の下から17行目まで、読みました。言葉と哲学者の関係が、関係代名詞を用いて説明を展開していく構文や、同格表現をいくつも並べていく構文を用いて、うねるように書かれています。こういう息の長い文がえんえんと続くと、読む側もかなり疲れ…

今日は、p.1255の下から3行目まで、読みました。p.1254の中ほどの、「世界」を思い浮かべるのがますます難しくなっているというくだりは、構文が少し込み入っていましたが、けっして無用な難解さではなく、明晰な表現の要請から必然的に決まった複雑さという…

今日は、「レオナルドと哲学者たち」の続きで、p.1254の13行目まで、読みました。言語や知だけでは十分でなく、あらゆる物質的方法を活用して、知を外的に検証可能なものとする力を持つレオナルドは、現代科学の直接の祖であるとヴァレリーは述べ、以下、知…

今日は、p.1252の下から10行目のmentale.まで、読みました。レオナルドは単なる知では満足しません。あらゆる物質を用いて、知(アイデア)を、実際の形にしようとします。物質と知との緊密なやりとりを描いたp.1252の真ん中部分の記述は、対話篇「ユーパリ…

今日は、p.1251の上から4行目まで、読みました。音の感覚や色彩感覚と同様に観念感覚というものがあり、音楽家や画家になる才能と同じように哲学者になる才能というものもあり、今や、哲学者の才能を持つ人は、真理やら実在やらの追求ではなく、観念の秩序を…

今日は、「レオナルドと哲学者たち」p.1249の上から15行目まで、読みました。粗雑な偶像から美しい偶像へと大きく変革した古代彫刻史の例を引きつつ、ヴァレリーは、伝統的な哲学が「粗雑」であり、新たな哲学は、態度を改めて、美しい言語芸術へと変革しな…

今日は、p.1247の上から8行目まで、読みました。哲学者は言語芸術家である。哲学者は概念の操作をしているときに、まさに、創造をしているのだ。ヴァレリーはそう考えます。そういう認識を持てない哲学者をヴァレリーは批判します。とりわけ、パスカルに対す…

今日は、p.1245の下から12行目まで、読みました。1244頁のところは、ヴァレリーの芸術論でも重要な部分です。哲学的美学が二つの対立する観念に分離してしまうところの諸要素(たとえば物質と精神とか意識と無意識とか……)のあいだに、芸術家たちは、活発な…

今日は、「レオナルドと哲学者たち」の続きで、プレイヤード版第1巻のp.1243の下から4行目まで、読みました。関係節の多い、息の長い文章、しかも抽象的な表現の多い文章が続きますが、芸術と哲学(美学)との断絶を際立たせるヴァレリーの文章の息遣いは熱…

今日は、「レオナルドと哲学者たち」の続きで、p.1242の下の一行空きのところまで、読みました。前回やや急いだ部分の復習にゆっくり時間を費やし、ヴァレリーのアンチモデルニテ論の例を、「ドガ ダンス デッサン」と「イタリア美術展に寄せて」から選んで…

今日は、ヴァレリーの評論「レオナルドと哲学者たち」の続きで、p.1241の下から13行目まで、読みました。実効性のある知のみが知として認知されるようになって以来、倫理学や美学といった形而上学はいにしえの力を失い、また、新しさ、烈しさ、奇妙さ(無意…

今日は、p.1238の下から2行目まで、読みました。哲学者は行動価値についての学(倫理学)と感情表現や感動創造にかかわる諸価値についての学(美学)という二つのものを自分のうちに構築せざるをえない、とヴァレリーが言っているところで使われていた比喩――…

今日は、p.1237の下から9行目まで、読みました。普遍性を担保に語っていると思っていても個人の特殊性に行きつかざるをえない哲学者の言説の矛盾について、ヴァレリーは批判の手を緩めません。今日読んだところでは特に、ヴァレリーの哲学批判が活き活きとし…

開講しました!

本日、開講しました。今日は、ヴァレリーの1929年の散文「レオナルドと哲学者たち」のテクストを配付し、さっそく冒頭部分を(p.1235の下から5行目まで)読んでみました。このテクストはイタリア出身の作家レオ・フェルレーロ(1903−1933)のデビュ…

前期最終回の今日は、「〈ナルシス〉断章」の最後まで、無事、読み終えることができました。とりあえずテクストをひととおり、最初から最後まで、ゆっくり読んでみるという目的を果たすことができて嬉しく思います。細部において難解な部分はいろいろありま…