火3バルト『批評と真実』

最終回

本日にてラストとなりました。最後の節「レクチュール」をざっと読みました。p.77やp.78で既に現れていた「再構成」(reproduire / une nouvelle efflorescence / une nouvelle image)のテーマが、pp.82-84あたりで再度展開されています。「書くこと」とは…

今日はp.79の3行目まで読みました。批評家(主体sujet)と言語langageの関係について述べたpp.76-78は難解でした。バルトによれば、sujet/jeはlangageの中に自らの中身を吐き出すようなpleinの存在(plenitude)ではなく、vide/absence/rienの存在(le rien …

今日はp.75下から2行目まで読みました。批評は作品を変形(歪形)する行為ですが、その変形は恣意的なものではなく、三つの拘束のもとに規則化されているとして、バルトは、1)作品においてはすべてが等しくシニフィアンであり、批評言語の「一般化」(変形…

今日はp.73の真ん中改行前まで読みました。今日読んだ部分は面白かったですね。意味は反復からではなく差異から生まれる。したがって、反復の頻度、語の出現回数といった統計学は、言葉の意味論からするとナンセンスである。ラシーヌ的状況を「一般化」する…

今日はp.70の下から5行目まで読みました。「文学の科学」の節の残りの部分、「理解可能性」がその客観性の基準だというのですが、少々わかりにくかったですね。でも、確かなのは、このあたりのテクストの時制は単純未来形が多く、バルトの考える「文学の科学…

今日はp.67の12行目まで読みました。バルトの論の流れを確認しながら進んでいると、やはり、あまりスイスイとは進めませんね。今読んでいるところ、簡単に言ってしまえば、作品=象徴の「真実」は、作者の死後、作者の署名や作者の意図や作者の人生に関わる…

今日はp.64の下から4行目まで読みました。バルトはチョムスキーの生成文法に依拠しながら論を進めているようです。p.63の下で、「言語能力」に対応して、おそらく人間には「文学能力」があり、それは「天才」とか「霊感」とかとは何の関係もなく、作者という…

「状況」によって曖昧さが減る実用言語に対して、文学言語(作品)の曖昧さは「状況」によって囲い込まれるということがない。作品の曖昧さは言わば純粋なもので、デルフォイの巫女の言葉のように簡潔で多義性に開かれている。あらゆる「状況」への回収を拒…

今日はp.59の2行目まで読みました。言葉に辞書の意味しかなかったら、そして第二の言語が「言葉の確実性」を揺さぶりにやってこないとしたら、文学は存在しないだろう、という部分で、バルトはマラルメの言葉を引いています。「詩人の思考を表すのに仮説的に…

今日はp. 57の1行目まで読みました。前回のところで参照されていたブランショの『文学空間』の一節とリクールの『解釈学試論』の一節を担当の方に紹介してもらいました。やはり、こうして、バルトの参照指示に従ってテクストの周辺を散歩すると、参照された…

今日はp.55の2行目(脚注1の途中)まで読みました。1960年代に進行する知的言説の質的転回は、中世からルネッサンスへの移行で生じた注釈の質的転回と同じくらい重要だとバルトは言います。これはおそらくスコラ的・アレゴリー的聖書読解から原典主義的・意…

今日はp. 52の下から5行目まで読みました。批評はエクリチュールの行為である。言語という対象と厳しく対峙する点において、批評家と作家の区別はない。作家は「立派な創造者」で批評家は「謙虚な下僕」だ、などという古い神話は、批評によってだけでなく、…

開講しました

お久しぶりです。後期授業が始まりました。というわけで、この授業日誌も再開です。現在、文学研究科の建物が耐震工事中のため、後期は、総合棟10階の経済学部21番教室を借りての授業となります。よろしくお願いします。 今日は、前期のポイントを復習してか…

最終回

pp.37-45を急ぎ足で説明しました。旧批評の最後の砦「文学の特殊性」という命題に対するバルトの批判です。文学は文学だというトートロジーに自閉し、コトバの検閲・禁止による自縄自縛によって、自分自身が沈黙せざるを得ない旧批評の貧しさ。「旧批評家は…

p. 36の下から9行目まで読みました。旧批評の金科玉条である「明晰」に対するバルトの批判の続きです。今日読んだところでは、とりわけp. 34の皮肉たっぷりの文章がユーモラスでした。「どうして物事をもっとシンプルに表現しないのか」という旧批評からの批…

「明晰」という神話の解体を試みた部分、p.33の14行目まで読みました。普遍フランス語という神話は現代言語学によって解体されたこと(フランス語の論理性は他の言語と比べて上でも下でもないこと)がp.30で語られた後、フランス人の「国民的病気」としての…

p.29の10行目、「趣味」の最後まで読みました。バルトによる精神分析批評擁護が長い一文(p.27下四行目からp.28下3行目まで)で展開されます。結局、精神分析批評に対する旧批評の無知は時代を超えたひとつの体質であるとバルトは断じますが、一方で、精神…

今日はp.27の10行目(Orの前)まで読みました。「客観性」に続く「批評的もっともらしさ」(旧批評)の第二の規則「趣味」の暴力性について、バルトの批判が展開される部分です。オブジェ(対象、モノとしての言葉)について語ることを禁じる「趣味」は、と…

今日はp.20の13行目からp.24の5行目まで読みました。これで、「1965年の批評的もっともらしさの規則」のひとつめ「客観性」の節が終わりました。言語の象徴性を認めて、文字通りの意味のなかに、それと矛盾しない他の様々な意味を読み取る「権利」を持つのか…

まずピカールpp.57-58を読んでから、バルトpp.17-20(12行目)を読みました。ピカールはバルトの用語法を前に苛立ちを隠しませんが、バルトも負けてはいません。文学批評の「客観性」を保証するはずの「明証的外部」に関するピカールの言葉を捉えて、バルトは…

レイモン・ピカールの本からpp.50-56を読みました。バルトのjargonは、科学的な装いだけで、正確さを欠く知的ぺてんに過ぎない、と厳しく批判するところです。特にネロンのapnee(アクサンなし)をめぐるrespirerの談義は、来週読むバルトのp.19の注のところ…

p.17まで読みました。特にp.16脚注の面白さ。ピカールがバルトを批判して持ち出す「規範からの逸脱」を示す語彙群。それらを淡々と列挙することで、逆に、ピカールの規範的立場をくっきりと浮き彫りにするバルトの手並み。さらにプルーストの言葉を引いて…