今日はp. 52の下から5行目まで読みました。批評はエクリチュールの行為である。言語という対象と厳しく対峙する点において、批評家と作家の区別はない。作家は「立派な創造者」で批評家は「謙虚な下僕」だ、などという古い神話は、批評によってだけでなく、「知的言説全体」によって既に破壊されているかもしれない。バルトはそう言って、三段論法や抽象のディスクールではなく劇的で生き生きした知的言説、言語という対象に真っ向から取り組んでエクリチュールの孤独を生ききっているような知的言説の事例を、イグナチウス・デ・ロヨラ(『霊操』)から、サド、ニーチェを経由して、現代の知的言説(ラカンレヴィ=ストロース)にまで探っています。デ・ロヨラに触れるバタイユの表現(「エノンセだけで満足するのではなく、凍てつく風を感じさせ、裸でいる感覚を強いるような、ディスクールに付加される意志」)は何だか迫力がありますね。知的な論証的言説におけるこうした転回は、中世からルネッサンスへの移行期に生じた危機と匹敵する注釈エクリチュールの危機(つまりは転換)であるとバルトは示唆します。こうした危機は原理的に何から由来するのか?p. 53でそれが語られます。次回はp. 55の2行目まで進む予定です。担当の方は、ただ訳すだけでなく、文中に出てくる参照事項(作品や論文など)があれば、可能な範囲でかまいませんので、そのコンテクストなどについて簡単に紹介していただけると助かります。