今日はp.67の12行目まで読みました。バルトの論の流れを確認しながら進んでいると、やはり、あまりスイスイとは進めませんね。今読んでいるところ、簡単に言ってしまえば、作品=象徴の「真実」は、作者の死後、作者の署名や作者の意図や作者の人生に関わる逸話の真実を離れて、「エクリチュールの神話」の世界に所属するようになるということ(p.65の脚注で引用されていたカフカの言葉――「人はその死後になって初めて、その人なりに発展していく」という逆説表現――は面白かったですね。私たちは、ソフォクレスの『オイディプス王』を読むときに、フロイトの「エディプスコンプレックス」を頭のどこかに置かずには読めないわけです)。そして、「文学の科学」は、特定の作者の科学ではなくて、「ディスクールの科学」であるということ。「ディスクールの科学」は文以下レベルでフィギュールを、文以上レベルで構造を扱うとバルトは述べていますが、それはそのまま、たとえば『旧修辞学』や『物語の構造分析』や『S/Z』で展開される仕事だろうと思います。文学テクストの分析は、それでも、「天才」とか「芸術性」とか「人間性」とかいった「手の届かない」部分を残してしまうであろうけれども、「エクリチュールの神話」の「真実」に粘り強い関心を注ぎ続ける限りは、簡単にそうした部分に頼ってしまう可能性は減るだろう、というのがバルトの自負であると思います。