セーシェル(ラディーグ島)

 「明晰」という神話の解体を試みた部分、p.33の14行目まで読みました。普遍フランス語という神話は現代言語学によって解体されたこと(フランス語の論理性は他の言語と比べて上でも下でもないこと)がp.30で語られた後、フランス人の「国民的病気」としての「言語洗浄癖」「言語的マルサス主義」がp.31で語られます。そして、バルトは、地理学者の言葉を引きながら、パプア人は人が死ぬと喪の印として言葉をいくつか廃止するが、フランス人は、死んだ作家の言葉を保存して、生まれつつある言葉を殺してしまう(喪の印は、死ではなく誕生を叩く)、と述べます。続いて、旧批評の「フランス的明晰」が、ひとつの特殊なjargonに過ぎないこと、しかも、その特徴は、明晰どころか、ぐねぐねゴテゴテしたステレオタイプの集合であり、また、普遍どころか、単なるありきたりのものに過ぎないことがpp.32-33で語られます。旧批評の「批評的もっともらしさ」の三原則(客観性・趣味・明晰)を叩くときのバルトの言葉遣いには、le banal, l'habituel, le courantといった言葉が回帰します。こうした金太郎飴的なところは、バルトの基本的立場が多義性主義であり、一義性主義の旧批評と根本的に対立する以上、当然のことと言えるでしょう。テクストをゆっくり眺めてみると、そうした事柄が(速読でも或る程度把握される特徴かもしれませんが)より一層具体的に把握される(そして、精読する授業の価値は、こういうところにある)ように思われます。さて、この授業もあと二回を残すのみとなりました。次回は、p.37の11行目まで進みます。最終回は、pp.37-45「L'asymbolie 象徴不能症」の要点を見ていきますので、ひと通り、読んでおいてください。