セーシェル(プララン島のカタツムリ)

今日はp.20の13行目からp.24の5行目まで読みました。これで、「1965年の批評的もっともらしさの規則」のひとつめ「客観性」の節が終わりました。言語の象徴性を認めて、文字通りの意味のなかに、それと矛盾しない他の様々な意味を読み取る「権利」を持つのか持たないか、というのが問題である、とバルトは断言します。この読解の「権利」の主張から、「作者の死」=「読者の権利拡大」の主張までは、もうすぐというところです。旧批評の「客観性」のひとつの柱は一義性主義に基づきますが、それは、結局のところ、想像力の自由な飛翔を抑圧することによって、イメージの「凡庸化」を不可避的にもたらしてしまう、とバルトは強い調子で繰り返します。banales,banalite,banalisation,banalise,insignifiance(アクサンなし)といった単語がたくさん現れますが、それらの語はすべて、多義性主義の新批評から一義性主義の旧批評に向けて投げつけられる強烈な批判の矢であるということが、語彙のレベルでよく見える部分だったと思います。さて、来週は、pp.24-29の「趣味」という旧批評の第二の規則に対する異議申し立てを読みます。本日、バルトとピカールの続きのテクストコピーを配付しました。欠席された方々は、フランス文学研究室の机のうえに置いておきますので、取りに来てください。なお、来週は、レポートの課題について、具体的な情報をお伝えする予定です。