セーシェル(プララン島)

 p.29の10行目、「趣味」の最後まで読みました。バルトによる精神分析批評擁護が長い一文(p.27下四行目からp.28下3行目まで)で展開されます。結局、精神分析批評に対する旧批評の無知は時代を超えたひとつの体質であるとバルトは断じますが、一方で、精神分析批評にもdiscutableな部分があるということをカッコ付きで留保しています。問題は、還元主義の陥穽をどの程度まで意識しているか、というあたりにありそうです。次回は、批評的もっともらしさの第三の規則「明晰」という名の神話について、バルトによる解体作業に立ち会います。
 今日は残りの時間を、受講生の皆さんのそれぞれの専門(4年生は卒論で扱う作品の研究)において、新旧両批評のイメージを具体的に持ってもらうため、例を挙げたり、意見交換をしたりすることに費やしました。まず、A君にランボーの「大洪水のあと」の解釈史の事例(歴史的アレゴリーによる読解を示したイヴ・ドゥニの旧批評と解釈格子を超える象徴性を指摘した宇佐美斉の新批評)を紹介してもらい、続いて、私がヴァレリー研究における事例(カイエや手稿の整理の以前/以後で作品研究のスタイルが大転換したこと)を紹介しました。基本的には、一義性への還元主義ではなく、多義性を認めたうえでの説得的解釈を目指すということが私たちの態度として選択されるはずですが、「説得的」ということの判断の過程において、どうしても、ある立場への「還元主義」的志向を採らざるをえないのではないか、といった疑問も生じました。このあたりは難しいところです。さしあたりは、旧批評に対するバルトの闘争をつぶさに追いながら、より「説得的」な批評とはどのようなものなのか、ゆっくり見ていくことといたしましょう。