今日はp.75下から2行目まで読みました。批評は作品を変形(歪形)する行為ですが、その変形は恣意的なものではなく、三つの拘束のもとに規則化されているとして、バルトは、1)作品においてはすべてが等しくシニフィアンであり、批評言語の「一般化」(変形のひとつのあり方)は、ある表現の出現回数ではなく、その表現が一部を形作る「諸関係の広がり」に関わっている;2)変形は、象徴の論理、シニフィアンの論理に従っているはずであり、この論理については精神分析構造主義がモデルを提供している;3)変形は常に同じ方向に向かって行われ、その方向は批評家のsubjectivite(主観性/主体性/主語性)と関係している(ただし、このsubjectiviteのsujetは対立概念としてobjet(対象)ではなくpredicat(述部)を取る)。以上三つの条件についてバルトは敷衍説明していますが、今日はその二番目と三番目の前半を読んだわけです。p.75で、「主観的批評」の通念的理解(「objetをまったく顧慮せず、勝手な個人的印象を、sujetの裁量のままにぶちまけたような無秩序でおしゃべりなディスクール」)に対して、バルトは、文学的対象への接近のチャンスとしては、教養ある主観性のほうが、無教養な客観性よりはずっとマシです、と茶目っ気たっぷりにパンチを喰らわせていました(新年初バルトという感じです)。さてさて、この授業もあと残すところ二回だけとなってしまいました。来週は少し駆け足で進みます(できればp.82の5行目まで進みたいと思います)ので、担当の方々、御準備をよろしく。