今日はp.79の3行目まで読みました。批評家(主体sujet)と言語langageの関係について述べたpp.76-78は難解でした。バルトによれば、sujet/jeはlangageの中に自らの中身を吐き出すようなpleinの存在(plenitude)ではなく、vide/absence/rienの存在(le rien du je que je suis / l'absence du sujet / le vide du sujetといった表現が繰り返されます)であって、作家(批評家)は、その空虚/不在/空無の周囲に、言葉を無限に織り上げていく人間である。文学のparole/ecriture/langageは、sujetの属性を述べる述部ではなく、sujetの不在性(sujet=absence)を示すものである、つまりは、langage=sujet=absenceである、といいます。なんだか、禅問答のようで、素朴なアタマではうまくついていけないところがあるのですが、このlangage=sujet=absenceは作品を論じる場合に常に残り続けるものである(作品の「根底」とか、「埋まっている」「客観的な」ひとつのシニフィエとか、「究極の秘密」とかを求めるのは不毛である)から、大事なのは、作品の記号/象徴を、外され、変化された記号/象徴として、もう一度、批評家自身の言語の中で「再生産reproduire」しようと努力すること(そうすることで作品を尊重すること)だとバルトは言います。批評の仕事は、隠されたひとつのシニフィエのようなものを明らかにすることではなく、象徴の織り成す連鎖系、記号間の関係の相同性のシステムを明らかにすることであり、作品を構成している象徴/記号の新たな開花(efflorescence)、新たなイメージを提示することに他ならない。結局、バルトは「もう一度読むこと」を誘っているようです。難解な箇所ですが、彼の息遣いは熱いところです。さてさて、本年度、バルトの『批評と真実』を何とか読み進めてきたこの授業も来週でラストとなります。「批評」の節の残りを担当の方に解説していただいたあとは、最終節の「読書」を私がざっと説明し、最後に、この書物の全体を振り返ってみることにしたいと思います。受講者の方々は、「読書」の節、ひととおり読んでおいてください。