「状況」によって曖昧さが減る実用言語に対して、文学言語(作品)の曖昧さは「状況」によって囲い込まれるということがない。作品の曖昧さは言わば純粋なもので、デルフォイの巫女の言葉のように簡潔で多義性に開かれている。あらゆる「状況」への回収を拒む作品は、言語への問いかけそのものである、と記してからバルトは、p.60で、作品が構造上、多重的意味を持つとすれば、作品は二つの異なるディスクールを生むはずだとして、作品が隠し持つすべての意味を狙う「文学の科学」のディスクールと、それらの意味のうちの特殊なひとつの意味を作品に与えようと意図する「文学批評」のディスクールを対置します。さらに、後者を、中間的言語の媒介の有無によって、「批評」と「読解」の二つに分離し、都合三つの言説――科学、批評、読解――を導きだして、以下のテクストにおいて、それぞれ節を区切って論じていこうとします。言ってみれば、『批評と真実』の第2部は、本日読み終えたところまでが序論で、以下が本論といった感じです。一区切りついたことに合わせたわけではないのですが、来週13日は出張のため休講とさせていただきます。今日は残りの時間、これから読むテクストの担当箇所を割り振りました。これからは少しペースを上げていきますので、参加者の皆さんは予習を、担当者の方は十分な準備をよろしくお願いします。なお、今後は、無断欠席が続く方の場合は、予定の担当箇所を解除して他の方にやっていただきますので、ご了承ください。この措置は、テクストの論理を丁寧に追うためには、継続的な授業参加が必要不可欠であるという判断によるものです。