「内面の書物」のなかで作者・読者・書物は溶け合う

 今日は『文学の第三共和政』第2部の前半部プルースト論の第9節を解説しました。プルーストの書物論では「作者、読者、そして書物は、それぞれの同一性を失い、互いに廃棄し合って、あの我々ひとりひとりの《内面の書物》、そのレクチュールがエクリチュールであり、そのエクリチュールがレクチュールであるような《内面の書物》のなかで溶け合っている」とコンパニョンさんは指摘します。そしてプルーストからの引用文。「結果として、私は彼ら〔読者たち〕に私を称賛したり馬鹿にしたりすることを望まないだろう。そうではなく、ただ、これでよいのかどうか、彼らが彼ら自身で読む言葉が私の書いた言葉でぴったりなのかどうか(この点について起こりうる食い違いは、私が間違いを犯したかもしれないということにいつも必ず由来するとは限らず、時折は、読者の目のほうが、私の書物が一人でしっかり読むために相応しい目ではないということ〔読者の目が私の提供する書物とピントが合わないこと〕に由来するはずのものでもあろう)、それを言ってほしいのだ。」読者の目、書物という光学器械、この両者がぴったり合えばそれはよかったということになり、そうでなければ残念でしたというわけです。括弧書きの部分にはいくらか作家プルーストの矜持も感じられます。さて、第2部の前半部プルースト論は本日で一段落し、休み明けは第2部の後半部フローベール論に突入します。文学と歴史、文学と政治が問題になります。では、また次回。