『ブヴァールとペキュシェ』第6章「政治」の章をめぐる考察

 コンパニョン『文学の第三共和政』の内容を読み取る授業の続きです。今日はp. 257の*の前まで、読みました。第6章の前では二人の好人物は幸せでしたが、第6章のあと幸せではなくなります。ブルジョワ社会の愚劣さに気づく前と後、その中間に来る事件とは何か。「政治」あるいは「歴史」が外部からの事件として無動機的に小説世界のなかに闖入し、それが、その前と後での主人公たちの気分を劇的に変えてしまう、ひとつの大きな深淵というか断層になっている、というお話は迫力があります。次回も続きを丁寧に読んでいきます。

シンプルさは、複雑で数多くの試みを前提とした理想の極限であること

 今日はヴァレリーの「コローをめぐって」の続きをp.1333の下から10行目まで読みました。ドラクロワと比べると控え目に見えるコローですが、その精神の特徴を一言でいえば「シンプルさ」であるとヴァレリーは言います。しかし、この「シンプルさ」は芸術の方法ではなく、むしろ逆に、目的、理想の極限であるとヴァレリーは強調しています。複雑なあれこれの事柄やたくさんの可能な眼差しや試み、そうしたものが還元され、汲み尽くされて、最終的に、その芸術家にとって本質的に重要な或る形や行動形式に置き換えられる。このような「シンプルさ」はたいへんな努力の積み重ねの末に、毎回の努力の果てに見出される境地であるようです。コローは生涯、悦びをもって苦しんだ、というヴァレリーのオクシモロンは興味深い一句です。このコローの「シンプルさ」に通じるひとつの具体的な比喩的事例として言及されるのが馬術教師ボーシェの完璧な「並足」のエピソードですが、それはまた来週の話題といたしましょう。

「書誌が最初で、序論が最後」が論文執筆の本当の順序

 休み明けの今日は、前回の補足として、書誌(参考文献・文献目録)の重要性についてお話しているうちに、それで終わってしまいました。ランソンの弟子筋にあたるであろうエミール・ブーヴィエとピエール・ジュールダの『フランス文学学生要覧』(初版1936年、増補第六版1968年、PUF)という本の14頁に「文学研究は探索領域の限定を必要とする。それが、あらかじめ比較された先行研究に基づいてなされることは言うまでもない。このことは《書誌》というシンドイが不可欠なタスクを前提とする。文学史にはまず謙虚さ、慎重さが要請されるだけでなく、批評的な用心深さも必要である。」というような記述がありました。それから東郷雄二先生の今や古典となった(2009年にちくま学芸文庫入りした)『文科系必修研究生活術』(2000年、夏目書房)の要点として、タイトルに示した研究の順番を強調しました。前振りが長くなってしまって恐縮です。来週は受講生の皆さんに当面の研究の「前提」となるおひとりおひとりの希望的参考文献について紹介していただきます。この授業では、コンパニョンさんの本『文学をめぐる理論と常識』に時々アトランダムに触れながら、そもそも問題意識・問題設定とは何なのか? 問題意識をどのように明確化すればよいのか? という研究の前提をなす根本的な問題について、皆さんと一緒に実践的・技術的に、そして時折、心構え的なことに触れつつ(道徳論的に? 反動的に?)考えてまいります。では、また来週。

「内面の書物」のなかで作者・読者・書物は溶け合う

 今日は『文学の第三共和政』第2部の前半部プルースト論の第9節を解説しました。プルーストの書物論では「作者、読者、そして書物は、それぞれの同一性を失い、互いに廃棄し合って、あの我々ひとりひとりの《内面の書物》、そのレクチュールがエクリチュールであり、そのエクリチュールがレクチュールであるような《内面の書物》のなかで溶け合っている」とコンパニョンさんは指摘します。そしてプルーストからの引用文。「結果として、私は彼ら〔読者たち〕に私を称賛したり馬鹿にしたりすることを望まないだろう。そうではなく、ただ、これでよいのかどうか、彼らが彼ら自身で読む言葉が私の書いた言葉でぴったりなのかどうか(この点について起こりうる食い違いは、私が間違いを犯したかもしれないということにいつも必ず由来するとは限らず、時折は、読者の目のほうが、私の書物が一人でしっかり読むために相応しい目ではないということ〔読者の目が私の提供する書物とピントが合わないこと〕に由来するはずのものでもあろう)、それを言ってほしいのだ。」読者の目、書物という光学器械、この両者がぴったり合えばそれはよかったということになり、そうでなければ残念でしたというわけです。括弧書きの部分にはいくらか作家プルーストの矜持も感じられます。さて、第2部の前半部プルースト論は本日で一段落し、休み明けは第2部の後半部フローベール論に突入します。文学と歴史、文学と政治が問題になります。では、また次回。

効果理論派から遠く離れて、コローおじさんは平和!

 今日も「コローをめぐって」の続きです。p.1332の真ん中まで、読みました。ヴァレリーによるコローの肖像が、対照法(コントラスト)によって、浮き彫りにされていきます。コローと対極的な位置に置かれているのが、ドラクロワ(音楽家ならばワグナー、詩人ならばボードレール)です。まだ冒頭数頁しか読んでいませんが、印象としては、力学的・生理学的な効果理論の論客ドラクロワのキャラが激しく立っているせいか、コローの存在感が控えめというかむしろ影が薄いほどです。これからどうなっていくのでしょうか。今日は、とにかくテクストを素直に読んでいくことの大切さについて意識を向けてみましたが、それにしてもドラクロワは目立ちます!彼の『日記』全2巻が2009年にジョゼ・コルチ書店から出ています。インデックスが充実していて、調べものをするときに便利です。ルーベンスの項目だけで1頁分ほども参照頁が並んでいて、ドラクロワルーベンスに大いに学んでいたことが察せられます。では、また次回。

中庸の倫理から希望的文献目録へ

 今日も前回の続きで、研究とは何なのだろう、という基本問題を意識しながら、外材批評と内在批評、コンテクスト重視の研究とテクスト重視の研究という、テクストを扱ううえでの両極端の視点が、ジャルティさんによれば、今や、そうした二項対立は積極的に乗り越えられていて、かつての硬直した文学史も文化史のほうへ自己改革して説得度を増す一方、攻撃的な文学理論も、詩学やテーマ批評や生成研究で多面的に説得度を増し、最近の若い博士論文執筆者たちはそのあたりのバランスをうまくとっているとのことでした。コンパニョンさんも安定したバランス感覚によって中庸の美徳を説き、ジャルティさんの文章も中庸の倫理を説いています。そして今日の本題ですが、前回少し言及した文献目録について、私自身の博士論文の事例を参考までに挙げさせていただき、個々の文献が私の研究にとってどのような意味を持ったか、いくらか回顧的に整理してお話をしているうちに時間となりました。受講者の皆さんにも是非、これから修士論文を準備するに当たって、どのような先行研究をどのように参考にしたいのか、希望的な文献目録の初歩的なかたち(まだ数は多くなくてかまいません)を例示してもらえたらと考え、休み明けにメモのようなものでよいので発表していただくことにしました。この授業はこんな感じで、コンパニョンさんの本を時々参照しながら、ダイレクトに研究や論文執筆につながる身振りの練習の場ともなっていけばよいと願っております。

内面のヴィジョンを読んで書く―プルーストの美学

 今日は第8節の続きを読み、説明しました。「読書について」と「サント=ブーヴに反論する」という二つのテクストから、ヴィジョンの美学について引用される文はいずれもプルーストの魅力的な創作論、天才論を示すものになっています。文は人なり、というのは有名なビュフォンの言葉ですが、プルースト的読書論でも重要な考え方になっているようです。次回は第9節を読みます。引用文の訳、当たった方々はよろしくご準備願います。