今日は、先週の続きで、p.26のテクスト1の残り部分を読みました。原典の第18段落と第19段落に当たるところで、相変わらず、奇妙に迫力のある文章が続きます。眩暈、陶酔、悦楽といった感覚的・官能的な言葉を用いながら、ヴァレリーは想像力の運動――見ることは結局、思考することにつながります――の極端な例として「同一化能力」という語を(エドガー・ポーから)引用し、想像力豊かな生活、想像力の活性について語ります。これもさらに極端になると、思考麻痺の催眠状態と同じような病理的状態に至るようです。こうして、見ることについての考察は、網膜によって見ることから、同一化能力による想像力の全開状態まで、ひとわたり踏査されました。ヴァレリーは、思考の実践における複雑さを、対象の理解に必要な複雑さの程度で説明しています。難解な対象を理解できる小部分まで分割をしていくという考え方があるとすれば、それはデカルト的な感じがします。思考するとは、理解の難易の度合いがわかっている様々なモチーフの間をさまようことに存する、という言い方に、ヴァレリーの「見ること」=「思考すること」論の基本があるようです。来週は断章の2を読みます。