今日は、前回に引き続き、イヴ・ボヌフォワの詩と詩論を読みました。『現前とイマージュ』ではボヌフォワの求めるものが様々な表現の形で繰り返し語られますが、その中のひとつ、「幼い読者」が語に出会うと同時に存在と大地の全体にも出会う、という言い方をしている部分があり、そこからのひとつの参照リンクとして、吉田加南子著『フランス詩のひととき』(白水社、2008年、朗読CD付きのお洒落な本です)所収のボヌフォワの詩「鉄の橋」を読みました。また、「死」を強く意識することから「生」の有限性と一回性、「存在」の「現前」を何よりも重視するボヌフォワの詩論のひとつの現われとして、1953年の『ドゥーヴの動と不動』の冒頭部分を取り上げた阿部良雄の解説(『フランス文学講座3詩pp.469-471.)を紹介しました。フォルマリスムや「エクリチュール主義」の行き過ぎに対する「実存」サイドからの「健全な」揺り戻しとして、また、モデルヌに対するアンチモデルヌの綱引きというかバランス運動として、ボヌフォワヴァレリーとセットにして眺めてみると、19世紀と20世紀の文学史の大雑把な流れが見えるような気がして、とても面白いと思いました。近代の詩論の大まかな流れを説明する場合は、ヴァレリーシュルレアリスムあたりで止まらずに、ボヌフォワまで引っ張ってみて、ようやく一回りするかな、という感じです。もっとボヌフォワを味わってみなくてはならないのですが、来週は、他の20世紀後半の詩人たちについて、少しだけ紹介することといたしましょう。