今日は「海辺の墓地」の第7節と第8節をゆっくり読んでみました。第8節は、詩がなかなか書けない詩人をうたったマラルメの初期作品を思い出させるような、ヴァレリーによるメタポエム(詩作をめぐる詩)です。「詩の源流で」、完全な無の段階と作品の片鱗が誕生する直前の段階のあいだで、じっと、内面の響きに耳を傾ける「私」なのですが、魂の奥底で鳴っているのは、「常に未来の空っぽの穴」である、つまり、作品として形になる以前の純粋な可能態というわけです(ローラーさんはこれをpure potentialiteと言っています)。モネスティエさんのクラシック・ラルース版の脚注によると、第6節から第8節までは、この詩の当初の意図にそぐわないという理由で、ヴァレリーは一時は削除も考えたらしい、とありますが、削除されないで本当によかったと思います。来週も今日と同じくらいゆっくりしたペースで続きを読みますが、とりあえず第12詩節まで予習をしておいてください。