今日はランボーのお話。まず、1871年5月のいわゆる「見者(voyant)の手紙」二通を読みながら、「未知なるものへの到達」が詩人の課題であるとするランボー詩学を紹介しました。マラルメヴァレリーが「新しい詩学」という言葉を使っていたのと同じように、ランボーもまた、「新しい文学」「新しいもの」「未知なるもの」をキーワードに用いていましたね。彼のスゴイところは、新しい詩の探求が、そのまま「自分自身の認識」「自分の魂の探索」と一体化しているところです。詩的言語の革新が主体の革新と同時進行している様子をよく示していると思われるのが『地獄の季節』の真ん中の章「錯乱II 言葉の錬金術」です。授業の後半は、このテクストを読み、その散乱する光のようなアンソロジーの世界に溺れてみました。これも、先週読んだマラルメと同じメタポエムつまり詩人の物語ですが、ランボーのテクストでは、「私」なるものが多様に変化して、距離/皮肉/揶揄が猛烈なスピードで回転しているような、読む者が絶えず微分され同時に積分されるような、実に奇妙な運動感覚を与えてくれます。テクストの中心部、ルリヂシャに懸想して旅籠の便所でよたよた酔い痴れて一条の光に溶けてしまう小蝿のシーンなどは、何とも言えずコミカルな逆説的幸福感が漲っていて、不思議な充実感がありました。無理に紋切型言語による説明をしようとすると失敗するように仕組まれた「詩の言語」の世界は精妙にリアルだったと思います。授業でもご紹介した野村喜和夫さんの本『ランボー『地獄の季節』 詩人になりたいあなたへ』(みすず書房、理想の教室、2007年)は、特にこの章を扱っていますので、興味のある方は、是非ご一読を。さて、来週は一気にプルーストに飛びます。20世紀文学の最高峰などとよく形容される大作『失われた時を求めて』。この作品もまたリアルな眩暈を与えてくれます。これまでは私の一人芝居でしたが、いよいよ受講生の皆さんによる10分間発表の「殴りこみ」も始まります。発表担当の方はご準備のほど、どうぞよろしくお願いします。