今日は、1935年の5月から7月にパリで開催された「イタリア芸術展―チマブーエからティエポロまで―」に寄せて、カタログの「序」として書かれたヴァレリーのエッセー「イタリアの芸術」をp.171の左側下まで読みました。激しい感情が満ち溢れたテクストです。ヴァレリーは、イタリア美術の至宝を前にして、現代の芸術の状況を嘆かずにはいられません。現代世界の無秩序な運動が人心や作品の混乱と無規律を促し、新しいものへの盲信が儚いもの・滅びさるものの創造を堂々と促し、美の価値を証券取引所の株価と同じ変動に晒している結果、みんな、せっかちに急いだ作品を作って、新奇を競っているが、それは実に空しい、とヴァレリーは考えています。彼の判断基準は、明らかに、古典主義です。「パオロ・ヴェロネーゼのフレスコ画」でも読み取れた方向がこのエッセーでも、さらに強い調子で語られています。イタリア美術の傑作を可能にした条件として、ヴァレリーは、純粋に熱狂的な芸術愛好家・芸術批評家サークルの存在と、おそらく、最も重要な要素として「暇」=「自由の時間」、ちまちまと小出しにすることなくふんだんに時間を使うことができる力を挙げていますが、そのいずれも、現代の芸術家には欠けている、と嘆きます。世界が二度目の世界戦争に向かおうとしている時代状況もあり、ヴァレリーの憂いには、とても切ない激しさがあり、テクストにもそれが如実に感じ取れます。次回は最終回となります。残りをすべて片付けますので、予習をよろしく。