今日はスティーヴ・マーフィの『駄目なガラス屋』論(70ページもある!)からごくごく一部を紹介しました。ウーセイの『ガラス屋の歌』のなかに出てくるひとつの単語「資本capital」に注目して、ウーセイの「私」がブルジョワ功利主義進歩主義的・自由主義的・博愛主義的ヒューマニズムの側に与し、ボードレールの「私」の反功利主義と明確な対立関係をなしていると論じた部分を読みました。その論のなかで紹介されていたパリのアパルトマンの戯画(マーフィp.359、「階を上に行くほど、社会的階層は下がっていく」)が面白かったですね。屋根裏部屋の「私」はいわば最下層の人間ですから、今や「資本主義者」になったブルジョワのガラス屋は上層の人間。「クリスタル・パレス」の破壊には階級的ルサンチマンがあるという読みです。『駄目なガラス屋』のテクストには細部の象徴性が数多く書き込まれており、マーフィの読解は、そうした細部に丁寧に目配りした力作です。しかし、ずっと付き合っていると他のテクストが読めなくなってしまうので、授業の終わりに、阿部良雄先生の『シャルル・ボードレール 現代性の成立』(河出書房新社、1995年)からウーセイの新古典主義的ロマン派的イリュジオンの詩学ボードレールやシャンフルーリの脱イリュジオンの詩学との対立関係に触れた、胸のすくような明快な文章(pp.296-299)を紹介し、さらに、『駄目なガラス屋』の青写真となった、もうひとつの重要なアンテルテクストであるエドガー・ポウの『天邪鬼』(中野好夫訳、ボードレール訳は1854年)全文を紹介して、一応の区切りとしました。来週は詩人の実存を描いた第5番『二重の部屋』のテクストを読みますので、予習をよろしく。