今日はアルセーヌ・ウーセイの『ガラス屋の歌』のテクストを読みました。ボードレールの『駄目なガラス屋』の影にあるアンテルテクストです。腹が減って死にそうなガラス売りを居酒屋に連れて行って一杯をおごるわけですが、考えてみれば、レストランに連れて行って食事をおごってやってもいいはず。ガラス売りは空腹による衰弱のところに酒の香りが回ったのか気絶してしまい、大事な商売のガラスを半分壊してしまいます。この点では、ウーセイの詩の「私」も、けっこうサディストかもしれません。いや、ヒューマニストを自任しているだけに、いっそうタチの悪いサディストかもしれない、などと意地悪な夢想をしてしまいましたが、全般に、「悲惨」のスペクタクル化は十分に「涙」を誘うかたちにはなっています。来週は、この詩について、スティーヴ・マーフィが詳しく述べていること、そして、ボードレールの詩と比較して分析していることを、私なりに紹介してみる予定です。