今日はまずフランシス・ジャムについて発表をしていただきました。ジャムはクローデル、ジッド、ヴァレリープルーストと同世代の詩人です。パリから遠く離れたベアルン地方に暮らし、孤独な魂の悲哀と「永遠の愛の清らかさ」を、とりわけ一連の「驢馬(ろば)」の詩でうたっています。複雑・難解ではなくシンプルさを志向するジャムの詩は、カトリシスムとの融合によって、日々の祈りのうたのようです。いわゆる象徴派の人々と比べると地味ですが、落ち着いた魅力があります。その魅力を発表者の方はよく伝えてくれました。残りの時間は、先週に続いてプルーストのテクストを読みました。以前、この概論で発表してくれたT君の見事なプレゼンテーション資料を活用させていただき、『失われた時を求めて』第四篇「ソドムとゴモラ」から、雌花を訪れる昆虫の話を枕にした、シャルリュス男爵とジュピヤンの「奇跡」の出会いのシーンを、フランス語テクストを参照しつつ、ゆっくり眺めてみました。providentielという形容詞とprovidentiellementという副詞が実に印象的でしたね。こういうエクリチュールの芸/ゲイを味わうのも、プルーストを読む楽しみでしょう。続いて、来週お話するヴァレリーとの関連で、プルーストの批評原理について、「サント=ブーヴに反論する」の一節(「一冊の書物は、もうひとつの自我の所産である」)を読み、あわせて、同じように「人間の生活は作者の生活ではない」「作者の生活は、彼という人間の生活ではない」(「ラシーヌの生涯について、でき得る限り、あらゆる細部をつみ重ねてみるがいい。諸君はそこから、彼の詩句の作法を引き出すことはないだろう」)と述べたヴァレリーのテクストを読みました。「人と作品」というサント=ブーヴ的批評原理とは真っ向から対立するこうした批評原理は、時を遡ればエドガー・ポーの効果理論へ、時を下ればロラン・バルトの「作者の死」まで、フランスモダニズム批評の基本線を形作っているように思われます。さて、何だか急に寒くなってきましたけれど、皆さん、風邪など召しませぬように。来週はヴァレリーのお話です。