今日は先週の続き。まず、阿部良雄先生の見事な指摘(『シャルル・ボードレール 現代性の成立』河出書房新社、1995年、pp. 296-299)を紹介しました。ボードレールvsウーセイの対立図式が、シャンフルーリvsウーセイの変奏であること、そして「『無能なガラス屋』の発想源はアルセーヌ・ウーセイの散文詩『ガラス屋のシャンソン』であり、貧しいガラス屋への「友愛」による連帯感というイリュジオンをいわば植木鉢の一撃をもって打ち砕くことが詩学的=道徳的な眼目であった」こと、1862年の『小散文詩』のウーセイへの献呈は、「新古典主義的偏向を示すロマン派の残党アルセーヌ・ウーセイ」への「阿諛」であり「揶揄」であったこと……実に鋭く面白い文学史的洞察でした。続いて、「駄目なガラス屋」の「筆法」の直接的なモデルとなったはずのエドガー・ポーの「天邪鬼」にざっと目を通し、「一般的命題から個別的実例(物語)へ」という「効果」的な語りの実際を観察しました(この「天邪鬼」のラスト近いところの一文――「私は何か見えない悪魔が、大きな掌でポンと一つ私の背中を叩いたように思った」――は背筋がぞくっとしました)。二つのテクストを並べてみると、「駄目なガラス屋」との類似点はいくつも見つかりましたね。最後に、ポーの『構成の哲理』(1846)と『詩の原理』(1850)で示された効果の詩学純粋詩論が、たとえばマラルメヴァレリーのテクストでどのように再現されているか、具体例に即して解説しました。それにしても、1864年1月のマラルメのカザリス宛手紙と1890年のヴァレリーのルイス宛手紙は、語りのテンションといい、用いる表現といい、そっくりでしたね。これで、ひとまず、「駄目なガラス屋」をめぐる間テクスト的散歩はおしまいです。文学テクストの網の目の劇の面白さを感じていただけたとしたら幸いです。さて、来週と再来週はフローベールを読みます。こちらもボードレールに負けず劣らず、言葉がガンガン自己主張して、テクストがざわめいています。そのざわめきにとくと耳を傾けるといたしましょう。