今日は、まずジッドの『狭き門』について発表をしていただきました。アリサの表象は一般に言われているほどプロテスタント的と形容されるべきものではなく、むしろ、「神への信頼感が欠如している」という遠藤周作の評言が紹介され、『狭き門』における「信仰」の問題の曖昧さが指摘されました。ある小説についての紋切型を疑ってみるという批評的読みの実践として興味深く拝聴しました。続いて、ジッドと親交の深かったヴァレリーについて、そのデビュー作『レオナルド・ダ・ヴィンチ方法序説』の冒頭三段落を解説しました。ひとりの人間のあとに残るのは、名前と作品ですが、ヴァレリーは、もうひとつ突っ込んで、その作品を読んで、あれこれ考える、われわれの思考こそが残るのだと言います。われわれの思考による再構成で問題となっているのは結局、われわれ自身の思考に他なりません。ヴァレリーは、冒頭から、読むこと、考えること、想像することの冒険を、自らのデビュー論文のメインテーマとして前面に押し出し、全方位的に優れた精神を想像するという困難な課題に立ち向かおうとします。その場合に採られる方法は、考証的博識ではなく、想像力の開発です。その方法の原理にあるのが人間精神の類似性の認識ですが、これは、デカルトの普遍的理性(bon sens)の考え方と遠く反響しているように思われます。実は、この冒頭三段落を、ヴァレリーは何度も書き直しているのですが、草稿分析から浮かび上がる生成の劇が何を語るかという点については、土曜日の学会シンポジウムでお話しようと思っています。関心のある方は是非足をお運びください。来週はヴァレリーのお話の続きです。